ベネディクト16世 (ローマ教皇)

ベネディクト16世_(ローマ教皇)
と言えば・・・

ベネディクト16世(ベネディクト16せい、ラテン語:Benedictus XVI 英語:Benedict XVI 1927年4月16日 - )は第265代ローマ教皇(在位:2005年4月19日 - )。バチカン市国国家元首。ラテン語の主格表記でベネディクトゥス16世と表記されることもある。

ドイツ出身で本名はヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガーJoseph Alois Ratzinger)。

ヨーゼフ・ラッツィンガーは1927年、父ヨーゼフと母マリアの次男としてドイツのバイエルン州マルクトル・アム・インで生まれた。父親は警察官であり、母は食堂の手伝いをして生計を立てていた。父ヨーゼフは1937年に退職したが、勃興してきたナチスに対して激しい嫌悪感を抱いていた。兄ゲオルグは、後にヨーゼフと共に司祭職を志して司祭となった。母マリアは1991年になくなっている。

親族によれば、ヨーゼフは小さい頃から司祭になることを夢見ていたという。しかし1939年に第二次世界大戦が勃発し、ドイツが戦争一色になると14歳でヒトラーユーゲントへ加入する。それは当時のドイツで「ヒトラーユーゲント法」によって、10歳から18歳までの青少年はヒトラーユーゲントへ加入することが義務づけられていたためである。1943年には学友たちと共に対空防衛補助活動に動員された。1944年にいったん自宅へ戻ることができたが、戦況の悪化にともなって再び動員されて歩兵としての訓練を受けた。1945年4月、ドイツ降伏後のわずかな期間、ウルムの捕虜収容所に収容されていたが、まもなく解放された。

戦後、兄ゲオルグと共に神学校にはいったヨーゼフは1951年6月29日に司祭に叙階され、1953年に『聖アウグスティヌスの教会論における神の民と神の家』という論文で神学博士号を取得。さらに1957年には聖ボナヴェントゥラについての論文を著して大学教授資格を得てフライジング大学に迎えられた。ヨーゼフは1959年から1963年まではボン大学で教え、ついでミュンヘン大学、テュービンゲン大学で教鞭をとった。テュービンゲンでは著名な神学者ハンス・キュングと共に教えたが、当時の大学にあふれていた学生運動や学生たちのマルクス主義への傾倒には行き過ぎを感じていた。

第2バチカン公会議ではケルン大司教ヨーゼフ・フリングス枢機卿の神学顧問として活躍。公会議文書『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』の作成において貢献した。このころのラッツィンガーは進歩的・改革的神学者とみられていた[要出典]。後にラッツィンガーは教理省長官として再び他宗教・思想との関係を論じた『ドミヌス・イエスス』を世に問うことになる。

1972年、ラッツィンガーはハンス・ウルス・フォン・バルタザールやアンリ・ドゥ・リュバックらと共に神学ジャーナル『コムニオ』を発刊。『コムニオ』は今では17言語で発行されるほどカトリック神学の世界において重要なものとなっている。

1977年にミュンヘン・フライジングの大司教に任命された。このとき、彼が司教職のモットーとして選んだ言葉はヨハネの第三の手紙からとった「コーペラトレス・ウェリターティス」(真理の協働者)であった。同年、パウロ6世によって枢機卿にあげられたが、2005年のコンクラーヴェにおいて、パウロ6世の任命した枢機卿のうちで生存しているものは14名、80歳以下でコンクラーヴェに参加できたものはラッツィンガーを含めてわずか3人だった。

1981年11月、教皇ヨハネ・パウロ2世はラッツィンガーを教理省長官に任命した。彼は教皇位を受けるまでその地位にあった。教理省はかつて検邪聖省といわれていたもので、古くは異端審問を担当した組織である。1982年にミュンヘン大司教区を離れ、1993年に司教枢機卿になり、1998年に枢機卿団の次席枢機卿、2002年11月30日に首席枢機卿に任命された。歴代の首席枢機卿はオスティアの名義司教であることが通例であるため、同時にオスティアの司教位も受けた。カトリック教会において是認されている教義に異を唱える神学者に対して厳しく対処するなど超保守派の代表とみなされており「教義の番犬」とあだ名されていた。また1997年には仏教について「明確な信仰の義務さえない自己陶酔」であると批判している。[1]

ヨハネ・パウロ2世の健康状態が悪化するにつれ、教皇の側近であり実質的に教皇庁をとりしきっていたラッツィンガーは後継教皇の最有力候補とみなされるようになった。教皇就任前の2005年4月初頭にはタイム誌の「世界でもっとも影響力のある100人」の一人に選ばれている。

2005年4月19日、コンクラーヴェは2日目にしてラッツィンガーを新教皇に選出。コンクラーヴェの動向を見守りながらサン・ピエトロ大聖堂前に集まっていた人々の前にメディナ・エステヴェス枢機卿があらわれ、数言語で群集に呼びかけ、ラテン語で「新教皇としてラッツィンガー枢機卿が選ばれ、ベネディクト16世という教皇名を選んだ」ということを告げた。続いてバルコニーに姿を現した新教皇はイタリア語で群集に挨拶し、最初の祝福(benedictio)を与えた。

ベネディクト16世は教皇選出時78歳であったが、これは1730年のクレメンス12世以来の最高齢での選出である。またドイツ人教皇は11世紀のウィクトル2世以来950年ぶりである。

ベネディクトの教皇名を名乗る教皇は、第一次世界大戦時に教皇位にあったベネディクト15世以来80年ぶりである。ベネディクト16世は2005年4月27日に行われた初の一般謁見において、この名を選んだ理由について、世界大戦という困難な時期にあって教会を指導し世界平和の希求を教会の第一の使命であると考えていたベネディクトゥス15世に対する敬意があったこと、次にベネディクト会の創立者ヌルシアのベネディクトゥスからとっていることを明らかにしている。ベネディクトゥスとベネディクト会は中世初期の混乱した時代において、キリスト教の知的遺産や古代文化を守り、次の時代へと継承する役割を担った。教皇は現代を混乱した時代と見、キリスト教2000年の遺産を次代に引き継ぐ責務を感じているといわれる。またベネディクトゥスがヨーロッパの守護聖人であることから、ヨーロッパのキリスト教を再びよみがえらせたいという意志の表れと見る向きもある。

ベネディクト16世の教皇紋章からは、伝統であった教皇の三重冠が消え、代わりに司教のしるしであるミトラが描かれている。教皇はより一般の人々と近づくため、パパモビル(謁見用教皇車)もオープンなものにしたいと考えているとされている。

教皇の着座式のミサにおいては従来行われてきた全枢機卿の忠誠の誓いの式が廃止され、代わりに枢機卿、聖職者、修道者、信徒家族、最近洗礼を受けた人々の12人の代表による式が行われた。全枢機卿は教皇選挙の終わりにすでに忠誠の誓いをたてている。ベネディクト16世はそういった習慣を廃止する一方で、かつて行われていた赤い教皇靴をはく習慣や列福式の司式などの習慣を復活させた。

ベネディクト16世は教皇位につくと教皇庁の人事を発表したが、それは前教皇時代の人々を再任命という形で留任させるというものであった。

その中でも最も高位の人事は国務長官のイタリア人のアンジェロ・ソダーノ枢機卿とバチカン市国の知事であるアメリカ人のエドモンド・スツカ枢機卿の2人である。このときの唯一の新人事は教皇自身がついていたポストであり、空位になっていた教理省長官の任命で、事前の予想に反してサンフランシスコ大司教区の大司教で2006年3月にベネディクト16世が初めて行った枢機卿任命で枢機卿に親任されていたウィリアム・ジョゼフ・レヴァダが指名された。レヴァダは新しいカテキズムの編纂者の一人であり、枢機卿団において最も保守的な傾向を持つ人物であるとされている。教理省長官のポストは教皇庁の中でも影響力が大きく、教皇にとっても自身が長らく務めていたポストである。アメリカ合衆国は世界政治において圧倒的な影響力を持つため、従来教皇庁の有力ポストにアメリカ人がつくことは教会の中立性に影響を及ぼす恐れがあるとされていた。

2006年6月22日には定年によるソダーノ枢機卿の引退願いを受諾、同年9月15日に当時ジェノヴァ大司教のタルチジオ・ベルトーネ枢機卿が新たに教皇庁国務省長官に任命されている。

2005年5月13日に教皇として最初の列福調査開始を命じている。調査対象は前教皇であるヨハネ・パウロ2世である。通常は死後5年を待たないと列福調査は開始されないが、前教皇は生前から聖人の誉れが高かった上、葬儀時には群衆の間から「Santo Subito」(サント・スビト:イタリア語で「すぐに聖人に」の意)の大歓声が繰り返し上がったためであった。聖人になるためには長いプロセスをたどらねばならない。初期調査で聖徳を備えていたことが立証されると「神のしもべ」となる。つぎに「尊者」になり、ここで対象者のとりなしによる奇跡が認定されて初めて「福者」になることができる。「福者」になってはじめて記念ミサを行うことができるようになる。

5月14日、最初の列福式を執り行った。列福されたのはハワイのマザー・マリアンヌ・コープである。彼女はモロカイ島のダミアン神父の協力者であり、ハンセン病患者のために生涯をささげた。彼女の任意の記念日は1月23日とさだめられた。ダミアン神父とマザー・マリアンヌはともにHIV感染者の保護者となっている。2人が列聖されるとハワイからの初の聖人の誕生となる。

列福・列聖式を精力的に執り行ったヨハネ・パウロ2世とは異なり、ベネディクト16世は司式を列聖省長官ホセ・マルティンス枢機卿におこなわせた。これは列福式のような対外的な業務もさることながら、教会の内的な業務に力をいれたいという教皇の意思のあらわれであり、自らの年齢と健康状態への配慮と識者は見ている。2005年10月23日にはベネディクト16世による最初の列聖式が行われ、ポーランド人でリバウの司教ヨシフ・ビルツェフスキなどが聖人にあげられた。

一般に超保守派とみなされており、ファシズムを信奉していた[要出典]。教皇としては、ヨハネ・パウロ2世と同様に避妊、人工妊娠中絶、同性愛などに対してはいづれも断固反対という立場をとっている。相対主義や多元主義は「どんな思想や文化もなんでもあり」とする行きすぎであると警鐘を鳴らしている。コンクラーヴェ開始のミサの中で彼はゆきすぎた相対主義を「個人のエゴと欲望だけに重きを置く結果になる」と警告している。もともとカトリック教会では「自らこそが正統、自らがすべて」という色合いが強かったが、第2バチカン公会議において、カトリック教会がエキュメニズムや異文化理解を促進しなければならないとして劇的な方向転換を成し遂げた。しかし、教皇はこの思想が行きすぎたものになり、結果としてなんでもありという相対主義にいきつくことで、カトリック教会の存在の意味そのものが失われかねないと危惧しているといわれる。

プロテスタントに対しては「『教会』と呼ぶことはできない」とし、東方正教会に対して「まったき教会としては欠点がある」と述べるなど、就任半年を経ずして他教会から反発される発言が出るようになった[2][3]

2005年6月6日にサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で行われたローマ教区信徒のためのミサの中で、ベネディクト16世は同性結婚や人工妊娠中絶への反対姿勢を再び明らかにしている。

2006年9月12日、ドイツの大学で行った講義の中で、ベネディクト16世はイスラム教の教えの一つであるジハードを批判する発言を行いメディアから批判を受けた。パキスタン議会は、9月15日に彼に発言の撤回を求める非難決議を全会一致で採択した。なお、発言にはイスラムを邪悪で残酷と評した14世紀の東ローマ皇帝マヌエル2世の「ムハンマドは、剣によって信仰を広めよと命じるなど、世界に悪と非人間性をもたらした」という言葉を引用している。

2007年にはトルコを訪問。初のイスラム教国の訪問となった。このときには、前年の「ジハード批判」に反発するデモが発生するなど混乱が見られた。このトルコ訪問ではエルドアン首相、セゼル大統領と会談したほか、イスタンブルのスルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)を訪問。その後、正教会のコンスタンディヌーポリ総主教庁を訪問、総主教ヴァルソロメオス1世と会談した。

また、2007年1月24日にはアニメーションやコンピュータゲームを含む、エンターテインメント作品における過激な性表現や暴力を「卑俗で背徳的であり、不快」と非難する見解を表明している。しかし「人間の尊厳を広めるなど道徳的な内容での使用であればメディアは教育を支援できる」と発言した。[4]

第2バチカン公会議以来ミサはラテン語の他、各国語で行うことができるようになり、現地の言語によるミサが急速に広まった。こうした中、ベネディクト16世は2007年7月7日、第2バチカン公会議による典礼改革以前のラテン語による最後のミサ典書の使用を限定的ながら認める自発教令「スンモルム・ポンティフクム」を発表した。これは前教皇による第2バチカン公会議前の典礼に親しみを感じる信徒への配慮(1988年に自発教令の形で使徒的書簡「エクレジア・デイ」)に続くものであるが、ラテン語ミサには賛否両論がある[5]

2007年7月10日、教皇庁は「ローマ・カトリック教会は唯一の正統な教会である」との記述内容を含む文書を公表した。これには教皇ベネディクト16世が承認を与えている。同文書はプロテスタント教会についても言及し、「使徒ペテロに始まる使徒的伝承をプロテスタント教会が壊し、叙階の秘跡を損なったために、『教会』と呼ぶことはできない」とした。正教会については、使徒的伝承を守っていると評価する一方、教皇に対する認識の面で「まったき教会としては欠点がある」とした[6][2]

このように正教会、プロテスタントのいずれとも真っ向から対立する見解を明らかにする一方で、2007年10月22日にはイタリアのナポリで開催された異宗教間サミットに出席してもおり、他教派・他宗教との対話を完全に拒絶してはいない姿勢も示している[7]

2008年12月24日、バチカンで聖職者向けに行った 年末の演説で、ジェンダー理論に触れ、男性と女性との区別をあいまいにするとして批判した。この批判には、同性愛者や性転換者の権利が拡大していることへの懸念がある。神が各人に与えた性や性交渉のあり方を歪曲することは、自然破壊と同様であり、結局は人間の「自己破壊」に繋がるという見解である。ジェンダー理論への批判は、同理論の、性が(神の生まれつき与えたものではなく)社会的に構成されるという主張に限られている。

2008年11月に行われたインタビューにおいてナチスドイツによるホロコーストの存在を否定する発言を行った超保守派司教の破門を2009年1月に撤回することを決定した。ホロコースト否定が犯罪として明記されているドイツおよびユダヤ人団体を中心として大きな批判を受け、教皇はホロコーストを否定しない立場を明確に表明するとの声明を発表している[8]

2009年3月にはHIVによる被害が深刻化しているアフリカ訪問中に、感染予防に用いられるコンドームの使用に反対すると述べた。この声明は世界保健機関およびアフリカ各国政府、カトリック教会の一部から強く批判されたため、教皇庁は釈明に追われた[9]

2009年12月24日、クリスマスミサ中に女性に飛びかかられ転倒する[10]

2009年になってアイルランド、ドイツ、アメリカ合衆国におけるカトリック聖職者による児童性的虐待事件が報道されるようになった。このスキャンダルに関してカトリック教会およびベネディクト16世への批判が高まり教会への不信は戦後最悪ともされる状態にまで陥っており、教皇の辞任を求めるデモも発生している。

アイルランドにおける事例については2009年末にアイルランド政府が公表した報告書が騒動のきっかけとなった。この中では1930年から80年代にかけて、教会の運営する施設において数百人の聖職者が少なくとも2500人の少年少女に性的虐待を加えたと述べられており、さらに組織的な隠ぺいがあったと結論している。ベネディクト16世は事件のもみ消しを図ったショーン・ブレイディー枢機卿の処罰を行わなっていないことが批判された。

300人以上もの被害者が報告されているドイツにおける事件では、教皇が大司教であった1980年の南部ミュンヘン教区においても被害者が存在すること、教皇の実兄が指揮者を務めたレーゲンスブルク聖歌隊においても虐待があったこと、さらに性的虐待に関与した神父の教会施設受け入れを認めたと報道されている。

アメリカ合衆国における事例では、ある神父が1950年から1974年にかけて聴覚障害を持つ児童200人に対して性的虐待を行ったとの報告が1996年に教理省に届けられたにも関わらず、当時長官であった現教皇はこれに何の回答も行わなかったと報道されている。[11]

これらのカトリック教会への批判に対して、教皇は3月の日曜礼拝において「つまらないゴシップにおびえることはない」と述べ隠蔽への関与を否定した。教皇に近い司教らは、報告されている聖職者による性的虐待は「一部の者の過ち」に過ぎず、「性的虐待はカトリックだけの問題ではない」「何者かの陰謀だ」などと反論している[12]。ベネディクト16世の説教師を務めるカプチン会のRaniero Cantalamessaは、教会への批判は反ユダヤ主義に基づくユダヤ人迫害に似ていると述べ不適切な発言であるとして再度批判を受けた[13]

母語のドイツ語のみならず、イタリア語、英語、フランス語、教会ラテン語など10言語に堪能であり、1992年以来フランスの倫理学アカデミーの会員でもある。

趣味はピアノで、特にモーツァルトとベートーヴェンの曲を好んで演奏する。またドイツ人らしくサッカー好きで、バイエルン・ミュンヘンのファンクラブ会員であることも知られている。

(日本語訳の存在する分のみ)