一橋大学

一橋大学
と言えば・・・

一橋大学(ひとつばしだいがく、英語: Hitotsubashi University)は、東京都国立市中2丁目1番地に本部を置く日本の国立大学である。1920年に設置された。大学の略称は一橋大(ひとつばしだい)または一橋(ひとつばし・いっきょう)。

一橋大学は森有礼と福澤諭吉が日本で最も古い社会科学の総合大学として1875年(明治8年)に開いた私塾である商法講習所を源流とする大学である。第二次世界大戦前には商学専門の官立大学(旧制東京商科大学)として開設されていた。 森有礼は、幕末期にロンドン大学に学び、のち初代米国代理公使としてワシントンに滞在した。英米両国では実業家が官僚や政治家に劣らず活動していること、国家独立の基礎は経済の富強にあって、そのためには経済人の育成が急務だと痛感したこと、それらが学校設立の端緒となっている。

沿革から、産業界の指導者を育成するという建学理念を持つ。トーマス・カーライル著"Past and present"にある「キャプテンズ・オブ・インダストリー」[1]という言葉は一橋大学における事実上の校是となっている。

少人数教育

一橋大学では少人数教育を重視している[2]

全学部の入学定員の合計は1学年1000人弱[3]で、比較的小さな大学であるといえる[4]。これと対応して1875年開設以来の卒業生の数も7万人程度と少ない[5]

このように現在でも、小規模な大学であるが、1980年以前ころまでは、さらに少ない学生数であった。 戦前の学生数は大学本科1学年280名前後、大学予科1学年200名前後、付属専門部1学年200名前後、商業教員養成所1学年35名前後であり、大学本科全体で合わせて700人から1000人程度、学園全体で2400人程度であった[6][7]

戦後は付属大学予科や付属専門部を吸収して拡張し、1学年440名(1959年)から490名(1963年)程度に増加した[8][9]。 他の国立大学文系学部と同様に団塊世代が大学に進学する1965年以降大幅に定員が増え、現在では学部生1学年約1000人程度となっている[10]

ゼミナール

少人数教育における特色としては、特に必修のゼミナール制度が挙げられる。 このゼミナール制度はベビーブームの時代にも教員一人に対して10人前後の学生という形態を変更しなかった。現在も10人前後でのゼミが行われている。

またこのゼミナールでは、学問だけでなく全人格的指導をおこなっているのも特徴であるとされる[11]。学生は3、4学年の2年間を通じて、同じゼミに所属することとなる。課外でのレクリエーション、ゼミ合宿、卒業後の定期的な会合などが行われるゼミも多い。

学部間の壁が薄い

戦前は東京商科大学という単科大学であったこともあって、学部間の壁があまりない。そのため一般の授業については、他学部の科目を原則自由に履修することができる。さらに他学部の専攻を副専攻とすることができる副専攻プログラムや、他学部への転学部制度もある[12]

ゼミナールについても、副ゼミナール制度などを利用することにより、他学部のゼミを履修することができる。

また学部によって、使用される建物が違うということもなく、使用されるシラバス・時間割も全学部共通のものである。1年次の語学のクラスも全学部の学生により構成され、他学部の学生と交流する機会も多い。

国際色ある教育

戦前から外国人教師を任用するなど国際色ある教育が伝統[13]で、現在500名を超える留学生が在籍しており、文部科学省の大学国際戦略本部強化事業にも採択されている。

大学に在学しながら、海外の大学に留学し、その際授業料・旅費・生活費が全額給付されるという一橋大学海外留学奨学金制度もある。また授業の一環として夏休み等に海外の大学に語学留学する講義も開講されている。

反官学の学風

上述のように、産業界の指導者を育成するという建学理念があり、そして実際にも卒業生の多くが産業界で活躍し、従来官界、法曹界に進むものは少なかった。また1909年には東京帝国大学(現東京大学)に統合し、東京帝国大学法科大学商科とすると決定した文部省に対し、学生、教員、同窓会が抗議、緒方竹虎、武井大助らがリーダーとなり学生が総退学決議をなし、これに折れた文部省が決定を撤回し、その結果、現在も一橋大学が存続しているという経緯がある(申酉事件)。そこで、卒業生は「官僚養成を目的に設立された旧帝国大学とは違う」という考え方を持っている[14]。 ただ、現在では法曹界や官界に進む卒業生も増えてきている[14]。特に法科大学院ができてからは大学の公式のプログラムにより法曹養成が行われている。

学生の自由を重んじる

現在の大学の名称が学生の投票により決められ、また学長選において学生の投票を最後まで認めていた大学であるという事実等から関係者は「学生の自由を重んじる校風をもっている」と考えており[15]、現在でも学長選・副学長選では学生による参考投票がおこなわれている[16]

旧制時代については東京商科大学 (旧制)も参照のこと。


一橋大学附属図書館は文部科学省から人文・社会科学系外国雑誌センターの指定を受けている。またEUからEU資料センターに指定されている。

一橋大学附属図書館の蔵書数は約175万冊。なお一橋大学では附属図書館以外にも国際企業戦略研究科図書室、経済研究所資料室、経済研究所属日本経済統計情報センター、社会科学古典資料センター、イノベーション研究センター資料室等にも図書等が所蔵されており、全学の蔵書数は約245万冊である[26]

一橋大学が社会科学の総合大学であるという特色から、全蔵書の5割は社会科学系である。また原則として同じ本を複数所蔵していない。したがって蔵書数という量的な面にとどまらず、質的な内容の充実度においても優位性が認められる[27]

一橋大学ではもともと単科大学であったことから、伝統的に中央図書館制が取られており、大学で購入された図書は基本的に中央図書館である一橋大学附属図書館に集中配置される。そのため一つの図書館である一橋大学附属図書館に蔵書約175万冊が集中的に所蔵されている。またその175万冊の図書のうち、100万冊が開架となっており、開架図書数は、他の国立大学図書館に比べ極めて多い。このように図書へのアクセス性が高いため、貸出数が多くなっている[28]

東京医科歯科大学、東京外国語大学、東京工業大学、東京学芸大学、東京農工大学、電気通信大学、慶應義塾大学、早稲田大学、国際基督教大学、津田塾大学との間で、図書館の相互利用協定が締結されている[29]。また上智大学との間で、相互貸出協定が締結されている。

一橋大学附属図書館に隣接する社会科学古典資料センターには、カール・メンガーの蔵書を集めたメンガー文庫やオットー・フォン・ギールケの蔵書を集めたギールケ文庫など各種文庫がある他、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の初版(1651年)や、『百科全書』の初版(1751年)、トマス・ロバート・マルサスのサイン入り『人口論』初版(1798年)や、ジャン=バティスト・セイの書き込みがある、マルサスの『経済学の諸定義』(1827年)といった貴重書も所蔵している。図書以外にも、ヴィクトル・ユーゴーやオノレ・ド・バルザックらの書簡、一橋大学ゆかりの経済学者である福田徳三やヨーゼフ・シュンペーターの手稿、古文書、紙幣、コイン等が所蔵されている。これらのコレクションの保存は、社会科学古典資料センターの修復工房の専門家が行っている[30]

一橋大学附属図書館は1998年、2002年、2003年には朝日新聞社による"大学図書館ランキング”で総合順位1位となっている[31]

21世紀COEプログラムとして、4件のプロジェクトが採択されている。

グローバルCOEプログラムとして、2件のプロジェクトが採択されている。

文部科学省の大学国際戦略本部強化事業に採択されている。

EUインスティテュート・イン・ジャパンにて、日本の研究教育拠点校として指定されている。

この他、以下のような競争的資金の獲得がなされている。

国際色ある教育

関係者は「伝統的に国際色ある教育が特色」と考えている。

世界各国の40以上の大学等と間で大学間協定の締結がなされ、社団法人如水会や卒業生が起業した企業等からの支援を受け授業料・旅費・生活費が全額給付される毎年40名を超える一橋大学海外留学奨学金制度がある他、文部科学省よる大学国際戦略本部強化事業への採択や、EUインスティテュート・イン・ジャパンによる日本の研究教育拠点校の指定がなされている。

授業の一環としてカリフォルニア大学デービス校付属外国語学校またはスタンフォード大学の短期語学研修プログラムに夏休みの期間に参加する、「海外語学研修@UC Davis」及び「海外語学研修@Stanford」も開講されており、一橋基金からこの研修の経費の一部につき援助がある。

奨学金・授業料免除制度

2007年度から一橋大学学業優秀学生奨学金制度という給付奨学金制度がスタートした。学部在学生及び卒業生を対象としており、経済状況に関わらず、成績が優秀な者に、年間96万円支給されている[32]

なお経済的事情で授業料を払えない場合には、授業料が免除されることがある授業料免除制度等もある。

理科系科目等の履修

四大学連合の協定により、東京医科歯科大学や東京工業大学、東京外国語大学で医学、理工学、外国語学等の授業を履修、単位取得することができる他、編入学、複数学士号の取得も可能である。また多摩地区大学協定により東京農工大学、東京学芸大学等で農学、教育学等の授業を履修、単位取得することもできる。

飛び級制度

商学研究科、経済学研究科、法学研究科には、大学院に飛び級して入学し修士号や専門職学位を取得できる制度がある。

2004年から文部科学省特色ある大学教育支援プログラム事業の大学対抗交渉コンペティションに、法学部及び法学研究科の学生を中心としたグループで参加しており、数度入賞した実績を持っている。2008年には準優勝している。

KODAIRA祭(コダイラサイ)は国立キャンパス東地区で毎年6月に開かれる、新入生のための大学祭。4月から開催される様々な新歓イベントの集大成として位置づけられている。一橋大学の学部1年生と2年生で組織される、KODAIRA祭実行委員会により運営・実行されている。もともとは小平キャンパスにて「小平祭」として開催されていたが、一橋大学小平分校(教養課程)の廃止にともない、国立キャンパスでの開催となり、名称も「KODAIRA祭」へと変わった。

一橋祭は11月はじめに開催されている。国立市商工会青年部が主催する天下市および国立市が主催するくにたち秋の市民まつりとともに国立市では中核イベントとして位置づけられており、これら三つのイベントが連携して開催されている[33]。学内向けイベントや一橋大学OB向けの企画の他に一般市民向けのイベントも開催される[33]。模擬店数は100以上。学部生だけでなく、院生や大学職員も模擬店や屋内企画などで参加する。ミスコンはマスコミにもとりあげられたことがある。

東京大学との対抗戦は一橋大学の前身である東京商科大学時代から続いており、端艇部(ボート部)、陸上競技部、ゴルフ部、ホッケー部など様々な運動部で開催されている。両大学では東京大学の「東」と一橋大学の旧称である東京商科大学の「商」を取って、商東戦(東商戦)と呼ぶ。また、単に相手校の名を冠して東大戦(商大戦・一橋戦)と呼ぶこともある。特に端艇部(ボート部)の東京大学一橋大学対校競漕大会は体育会以外の学生や出身者も観戦に訪れるため、他の同対抗戦と比べて盛大である。2009年は対校全種目を含む8種目(9種目中)で一橋大学が勝利するという歴史的な大勝利となり、特に対校エイトは東大に20秒以上の大差をつけ5分58秒という大会新記録でゴールした。

一橋大学の同窓組織は社団法人如水会といい、文部科学省所管の公益法人となっている。もともとは東京高等商業学校同窓会であったが、1909年に発生した申酉事件を契機に同窓組織の強化が唱えられ、1914年に母校防衛を基本理念とする如水会として改組された。如水会館は如水会のクラブ会館として建設された建物で、運営は東京會舘が行っているものの土地建物は如水会の所有となっている。

国立キャンパスは大学通りを境に西地区と東地区に分かれている。

国立キャンパスには古い建物が多く、以下の建物が国登録有形文化財となっている。

兼松講堂は1927年に兼松により寄贈された。国登録有形文化財である。

1982年に日本建築学会により、建築学的に貴重な建物2000棟を集めた『日本近代建築総覧』に掲載された[34]。1990年には東京都により都市景観上重要な歴史的建造物150棟の1つに選定され、建造物の保存への配慮要請を受けた[34]

音響に優れており[35][36]、クラシック音楽のコンサートに利用されることも多い。これまで、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(ウラディーミル・アシュケナージ指揮)のコンサートや、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者を招いてのコンサート、ラドゥ・ルプーのコンサートなどが開催されたことがある[37]

国立キャンパスは、武蔵野の原生林を残している。2006年には、「国立キャンパス100年の森プロジェクト」が文部科学省全国国立大学施設管理運営に関する先進事例11例に選ばれた[38]他、国立キャンパス西地区中央の庭園計画が評価され、緑のデザイン賞・国土交通大臣賞を受賞、資金助成を受けた[39]

映画『男はつらいよ 寅次郎夢枕』[40]、映画『容疑者Xの献身』[41]、ドラマ『ヴォイス〜命なき者の声〜』、ドラマ『ガリレオ』、ドラマ『エジソンの母』[42]などの撮影ロケ地として使用されたことがある。また旧西本館(現本館)や東本館は漫画『魔法先生ネギま!』の「麻帆良学園」のモデルの1つになっている[43]

学術総合センタービルを指す。国立情報学研究所が入居していることから学術総合センタービル自体は同研究所の所有と見られることが多いが、実際には一橋大学の所有である[44]。一橋講堂(1932年竣工) の跡地。

かつての東京商科大学予科およびその後の一橋大学小平分校(教養課程)が設置されていたキャンパス。1996年春に小平分校が廃止され、その後1年間一部の授業が行われた後、一旦閉鎖されたものの申酉事件を想起する如水会員からの懸念表明もあり、国際交流を主体とした施設を置くキャンパスとして再度開設された。





申酉事件(しんゆう じけん)とは、文部省が東京高等商業学校の専攻科を廃止して東京帝国大学へ統合する省令を発令したことに対する東京高等商業学校側の反対運動を総じて指し示す際に使われる言葉である。申年の1908年から酉年の1909年にかけての事件なので、これを「申酉事件」という[46]

1900年頃、東京高等商業学校は、渋沢栄一を中心に帝国大学とは別に商科大学という制度を設け、東京高等商業学校の専攻科を商科大学へ昇格させるように陳情活動を実施していた。これに対して、当時の文部省は「大学は帝国大学のみでよい」という考えをもっており、1907年に商科大学という制度を設けることにしたものの帝国大学に設置する考えを改めなかった。1909年5月6日には東京高等商業学校専攻科を東京帝国大学法科大学の商科として東京帝国大学へ移管、同専攻科を廃止する省令を発令した。

この文部省令に対して、東京高等商業学校に在学していた約1500人の全生徒および同窓会が猛反発、臨時学生大会において総退学を決議し、抗議の姿勢を表した。

東京高等商業学校側の姿勢に対しては当時の財界人の支持があり、新聞各紙の論調も東京高等商業学校に同情的であった。この結果、文部省側が折れることとなり、1912年には東京高等商業学校専攻科を存続させる文部省令が発令され、東京高等商業学校はそのまま残存することとなった。

この事件は東京高等商業学校のみならず多くの官立大学、そして私立学校が大学への昇格を求めるきっかけとなった。さらにその後大学令が制定され、旧制専門学校が旧制大学へ昇格する端緒となった。

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