日本

日本
と言えば・・・

日本国(にっぽんこく、にほんこく)、または日本は、日本列島及び周辺の島々を領土とする国家である。

「日本国」という国号は、日本列島東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来していると考えられる。憲法の表題に「日本国憲法」や「大日本帝国憲法」と示されているが、国号を「日本国」と直接かつ明確に規定した法令は、存在しない。

「日本」の国号が成立する以前、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称されていたが、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになった。やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「大和」「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだ。[1]「日本」という国号の成立時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。従来の遣隋使を改めた遣唐使を送り、唐との外交関係を深めていた[2]。その後、672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進めた。そして、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令へと至る。

このような情勢の中で成立した「日本」号だが、具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただ、それを推定する見解は、二説に絞られる。まず一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である[3]。これは、この治世に成立したと解される「天皇」号と同時期に「日本」号も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」号と「日本」号と両方が定められたと推測する[4][5]。もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」号が成立したとする説である[6]。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」号が定められたとしている[7]。『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔に「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[8]

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[9]。後代に成立した『旧唐書』[10]、『新唐書』[11]にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。国号の変更の事情について、『旧唐書』が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、『新唐書』が「倭が日本を併合し、国号を奪った」としている[12]。いずれにせよ、これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[13]

『旧唐書』・『新唐書』が記すように、「日本」国号は、日本列島を東方に見る国、つまり中国大陸からの視点に立った呼称である[14]。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行なわれた日本書紀の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[15]

『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎず、「日本」国号の成立と無関係と考えられている[16]

にっぽん」もしくは「にほん」と読まれる。日本政府は、正式な読み方を明確に定めていないが、どちらでも良いとしている[17]。雅語で「ひのもと」と読むことがある[18][19]

「日本」の国号が成立する以前、中国の王朝から「倭国」・「倭」と称されていたが、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになった。やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、これを「ヤマト」と読んだ。[20]

同時に、7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される[21]。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。平安時代の仮名表記では、促音・濁音の区別が無かったため、「ニッポン」音も「にほん」と表記された。ここから「ニホン」の読みが起こったと考えられる。しかし、日本語のハ行音は、P音→F音→H音と変化したと考えられ[22]、江戸時代以降にH音が定着したので、仮名で「にほん」と表記されたものを平安時代に「ニッポン」ないし「ニポン」と読み、やがて「ニフォン」に変化し、江戸時代の後期に「ニホン」と読むようになったと考えられる。また、平安時代に「ひのもと」とも和訓されるようになった。

室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本語小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた[23]。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している[24]。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。

その後、明治に入っても「ニッポン」「ニホン」が統一されない中、1934年(昭和9年)に文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用する、とする案を示したが、不完全に終わった。2009年(平成21年)6月30日には、政府が「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定した[17]。現在、通商や交流の点で海外と関連のある紙幣、切手などに「NIPPON」と描かれる一方、「NIHON」表記を用いる団体の例としては、日本ビデオ倫理協会や日本大学、日本ユニシスなどがある。なお、(国会に複数の議席を有したことのある)日本の政党名における読みは、以下の通り。

古くから多様である。

通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。が、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように西暦700年前後であり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている[29]

時代の区分は、考古学上のものと歴史学上のものとがある。考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、古墳時代、歴史時代、とするのが一般的である。一方、歴史学上は、古代(飛鳥時代まで・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治・大正・昭和以降)の四分法が通説である。

日本列島における人類の歴史は、次第に人が住み始めた約10万年前以前ないし約3万年前に始まったとされる。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると、大陸から分離した。この後も列島と大陸との間に活発な通交・交流が行なわれ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった。が、東アジアの最東方に所在する島国、という地理的条件により、他の東アジア地域と異質な要素を持つ独自の文化・社会・政治体制を発達させた。

紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式が伝わると、各地に「ムラ」「クニ」と呼ばれる政治組織が徐々に形成され、1世紀・2世紀前後に各クニの連合による倭国(本来はヤマト等であり後に国名を日本変更)と呼ばれる大規模な政治組織が出現した。この連合的政治組織は、3世紀・4世紀頃に統一王権(ヤマト王権)へと発展する。その後ツングース系中国人の国家である百済や新羅に対して、度重なる出兵を行いまた要人を配する等したため国外に影響力を持つようになる。663年に百済復興のために援軍を送るが白村江の戦いで唐に敗れて半島への影響力を失う。7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。当時の日本は、隋との通交以来、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの独立を志向した。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。 その後、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、13世紀の元寇、16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持した。

成立当時の日本の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が領域に組み込まれたのは、鎌倉時代に入ってからである(蝦夷)。特に8・9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に新羅遠征も計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。

10世紀から12世紀に掛け、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に中世国家へと移行した(荘園公領制・職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」や「日本国」の表記が見られ始め、社会に「日本」や「日本人」の意識が生まれたことの表れと考えられる。特に13世紀後半の元寇は、「日本」・「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」・「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている[30]。室町時代には、「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ。

14世紀から15世紀までの時期には、社会の中世的な分権化が一層進展したが、15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は、中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に日本の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太を含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀にシャクシャインの戦いやロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、アイヌ及びロシアへの他者意識が「日本」・「日本人」観となって庶民層にまで定着し、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島・硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩島津氏が琉球王国を侵攻して支配下に収めたが、その後も琉球王国は、日本・中国への両属を続けた。

19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「日本」・「日本人」意識が更に強まり、ほぼ現代の「日本」・「日本人」意識と一致するまでに至った。アジア各国が欧米列強の植民地とされる中で日本が独立を長く保ったことは、国民国家意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設の基礎となった。

明治維新に伴う近代化により、近代的な国民国家の建設を急速に進めた。同時に近隣国と国境の確定を行い、1875年(明治8年)に樺太を放棄する代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、また、琉球処分を通じて南西諸島方面の実効的な支配に成功し、ここに一旦、近代国家としての日本国の領域が確定した。

自由民権運動を経て1885年(明治18年)に内閣制度を確立し、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を制定し、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして、アジアで初めて憲法と議会とを持つ、近代的な立憲国家となった[31]

19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られ、日清戦争や日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。両戦争を通じ、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土に収め、関東州の租借権を獲得した。その後、1910年(明治43年)に韓国併合が実施された。1919年(大正8年)にパリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した(アメリカ合衆国などが反対)。また、発足した国際連盟からの委任を受けて南洋群島を統治することとなった。大正時代に大正デモクラシーが起こり、政党政治や普通選挙が実現した。

1930年代に満洲への進出を強め、満洲国を建国して一定の支配権を得るに至り、軍部が台頭した。こうした対外志向は、特にアメリカ合衆国を始めとする欧米諸国の権益と真っ向から衝突し、最終的に1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)の敗北によって破局に至った。

そして、イギリスやアメリカなどの連合国により、史上初めて占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領有権・統治権の総てを失った。占領下に国制の改革が進められ、憲法改正を行って日本国憲法を制定した。1952年(昭和27年)の平和条約によって全権を回復し、戦後、復興と共に1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げ(高度経済成長#日本の高度経済成長)、世界有数の経済大国となった。また、1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)にかけてトカラ列島や奄美群島、1968年(昭和43年)に小笠原諸島、1972年(昭和47年)に沖縄県の施政権が、それぞれアメリカから返還された(本土復帰、沖縄返還)。

1970年代後半以降、先進国の一員として数々の国際的役割を果たし、多くの発展途上国で成長モデルとして目標にされた。21世紀に至り、高齢化社会に伴う人口減少、経済のグローバリゼーションへの対応など、数多くの課題に直面している。

国家としての日本、又は、日本の文化は、長い年月を経て段階的に形成されて来ていて、明確な建国の時期を示す記録は、存在しない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)となっている。

『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、戦前、これが日本建国の画期と考えられていた。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする紀年法・「皇紀」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用された[32]

公的には、この神武天皇即位紀元をもとに、1966年(昭和41年)、建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)により、2月11日が「建国記念の日」に定められた。しかし、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、神話と見られ、事実でないとされる。戦後、皇紀の使用は、殆ど無くなった[33]

建国の時期として、この他に「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還が為されて近代国家の建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることもある。が、国家としての日本は、長い歴史的な経緯を経て形成され、明確な建国の画期を見出すこと自体が困難と言え、主観的なものとなりがちである。  

6852の島(本土5島+6847離島)[34]から成る島国である。アジア・東アジアの中でも特に東方にあり、ユーラシアの東端にあたるため、欧米から極東・東洋などとも呼ばれる。全体的に弓形状であり、全面積は約37.8万km²(日本の実効支配領域に限る)。国土の約70%が山岳地帯であり、約67%の森林率である。

太平洋の北西部にある領土は、本州・北海道・九州・四国などから成る日本列島を中心に、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島など)、及び北東に位置する千島列島に含まれる北方地域(北方領土)など、離島を多く含み、全体として列島#弧状列島を形成する。

周囲を太平洋、日本海、東シナ海、フィリピン海、オホーツク海などの海洋に囲まれる。本州と四国との間の海は、瀬戸内海と呼ばれる。地上の国境線が無く、ロシア、北朝鮮、台湾、韓国、中国、フィリピン、アメリカと排他的経済水域が接している。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。沖合を暖流の黒潮、対馬海流、寒流の親潮、リマン海流が流れる。

現在、ロシアとの間に北方領土問題(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)、韓国との間に竹島の領有問題がある。その他、近年になって尖閣諸島の近海に地下資源が発見されて以降、中国や台湾が尖閣諸島の領有権を主張している。現在の実効支配で言えば、北方領土がロシア、竹島が韓国、尖閣諸島が日本、となっている。

地形区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線を境に、南西日本と東北日本とに大別される。付近では、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレート、北アメリカプレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯・環太平洋火山帯・環太平洋地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発な事から火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。また、温泉が多い事も火山の恵みと言える。

河川は、利根川・最上川などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短い事、海抜高低差が急な事もあり、比較的、流れが速い。集中豪雨が発生した時、堤防を決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。

周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海を入れた領域の面積は、約43万Km²、排他的経済水域を入れて約447万km²であり、領土のみの面積の11.7倍にあたる[35]

都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。但し、地域区分(地方区分)には、揺れが見られる。また、一部の市は、行政上、別途政令指定都市、中核市、特例市に定められている。他にも、市町村や、町村をまとめた郡がある(全国市町村一覧参照)。

年齢5歳階級別人口

年齢5歳階級別人口


100万人規模以上の人口を有する大都市が各地方に点在している。国民の多くは、これらの大都市、又は、その周辺部で生活する。国土全体を対象とした人口密度調査においても領域国家として世界有数の高さを示すが、沿岸の平野部に都市部が集中していて、国土の1割に人口の9割が住む。また、日本海側に比べて太平洋側に人口が集中している。中でも特に東京を中心とした首都圏の人口は、日本の人口の約3分の1を占め、世界最大の都市圏を構成する。そのため、都心部では土地の値段が高騰化し、ドーナツ化現象などの問題も起きている。

古来から日本列島で暮らしてきた人々は、日本民族(大和民族)と呼ばれ、日本に住む者のほとんど(98.5%[40])を占める。また、日本列島にルーツを持つ他の民族として、アイヌ及びニヴフ、ウィルタがいる。アイヌは、北海道の先住民族として政府から認定されているが、樺太にルーツを持つニヴフ、ウィルタは、政府による公式な認定を受けていない。沖縄諸島ないし琉球諸島の住民を琉球民族として大和民族と分ける考えもある。

ヤマト王権の側から書かれた古代史には、九州地方に熊襲、東日本に蝦夷など、文化を異にする部族がいたという記録がある。彼らは、徐々に大和朝廷に臣従しながら大和民族と同化していったとされる。アイヌ語と日本語との比較言語学的な関連が見出せないことから、アイヌと大和民族との関連について様々な議論があるが、遺伝学や考古学的証拠から大和民族との関係を重視する学説が有力になり、大和民族に同化しきらなかった蝦夷が、オホーツク文化などの影響を受けつつ、徐々に中世頃から分化したものと考えられている。

日本国籍を有さない外国人や日本列島外にルーツを持つ帰化した日本人が200万人程在住している[41]。現在、在住人口の約1.5%が外国人登録者である。中国籍、韓国籍、朝鮮籍、台湾籍、ブラジル国籍、フィリピン国籍の順に多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。近年の外国籍の増加の背景には、1990年(平成2年)の入管法改正でブラジルなどに移民した日本人の子孫の日本での就労が自由化された事が大きく、更に結婚の国際化などもある。その他、戦前の亡命ロシア人の子孫も少なくない。

韓国籍、朝鮮籍、及び台湾籍については、戦前の旧・日本領の出身者、および両親のうちいずれか(あるいは両方)がその出身である者の子孫が多く、中国残留孤児や家族の永住帰国もいる。更に、韓国籍、朝鮮籍に関しては、朝鮮戦争の逃れた難民が30万人程いる。

1895年(明治28年)に台湾を、1910年(明治43年)に朝鮮半島を併合後、太平洋戦争敗戦まで日本の一部として、台湾人、朝鮮人にも日本国籍を与えていたため、これらの地域にルーツを持つ人々が多く、順次、経済的に豊かであった本土に移住してきた者も少なくない。ただし、朝鮮人の移入が始まると政府は朝鮮人の本土への移動を禁止した、その為不法に入国(移動)し住み着いた朝鮮人が戦前戦後に急増した。また、大戦中に軍人、軍属として、又は、労働者として志願して来た者もいる。終戦の後、彼らの多くが祖国へ引き上げたが、各人の判断や事情によって日本に留まったり、いったん帰国した者の内の一部が戦後の祖国の混乱(朝鮮戦争)(国連による難民認定がされている)や韓国軍による虐殺(済州島四・三事件)、また差別階級の出身者が多かったため祖国を逃れて日本に渡ったりした。その後、サンフランシスコ平和条約締結によって日本国籍を喪失したが、特別永住者として在住し続ける者も多い。現在では、日本生まれが多数派であり、帰化して日本国籍を取得する者も多い[41]。日本国籍を取得していない場合もあり、その場合は当然日本国民とは呼べない。無国籍状態や多重国籍状態の者も少なからず存在する。

日本では明治以来、日本国籍保有者は出自に関わらず法的には日本人の地位として扱われているが、文化的に「外人」の陋習が根強くあり、両親のうちいずれかの家系に外国籍(他民族・他文化)の血統があることで外人扱いすることがあり血統差別の問題を生んでいる。とくに韓国・朝鮮系を両親にもつ日本国籍取得者、あるいは韓国・朝鮮籍人と日本国籍人の両親から生まれた子孫に、民族意識と国籍の乖離の問題が多く現れている(在日)。これは韓国社会が日本と同様に血統主義・純血主義の傾向を持つことも影響しており(在日認定)、日本社会の側も彼らを国籍とは関係なく外人(在日)扱いすることがある。戦後の日本社会に歴史的に形成されてきた韓国・朝鮮文化アイデンティティは、かつては日本社会による韓国・朝鮮人差別として指弾され、昨今では逆に彼らの日本文化や日本民族(大和民族)への差別意識や特権意識(アファーマティブアクションに乗じたモラルハザード)が問題とされしばしば指弾されている(参照:在日韓国・朝鮮人)。

アイデンティティと国籍の問題は明治の開国以来、日本が否応なく直面することになった人権問題であり、戦前から華僑・印僑の人々や様々な移住者、戦後ながらくは台湾・中国系日本人コミュニティの間で葛藤を生んできた。近年では日系移民2世3世の出稼ぎ労働や、東南アジア・中国からの「研修労働者」、不法入国(滞在)労働者の人権問題などが発生している。

日本人の起源は、いわゆる縄文人を基層に弥生時代の前後に、南東・東アジアから移住したものとの近年有力(近年のDNA追跡)だが、詳細について諸説あり、定かでない。自称として「和人」、あるいは近代的な民族意識の下で「大和民族」・「日本民族」とも言う。古代からの天皇を頂点とする近畿地方の朝廷と、中世以降における天皇を支配の正統原理として後ろ盾とする武家政権との二重構造で成立した中央政権の支配下に入った地域の住民が、固有の大和民族とされる。南西諸島の人々は、縄文時代から弥生時代にかけて九州から南下した人々が中心となっているとされ、言語的にも本土の住民とルーツを同じくしていることは明らかである。しかし、アイヌ民族の起源は、未だ諸説あり明らかでない。

縄文晩期以降、ユーラシア大陸からの移住者が縄文時代からの土着の狩猟採集民と混血しながら倭人(和人)としての文化を形成する。ヤマト王権の成立に伴い、和人としての文化的な一体性が形成される。その後、蝦夷など朝廷の支配下に入るのが遅れた人々を同化しながら文化圏の拡大を続け、平安時代までに本州・四国・九州の全域が和人の生活範囲となった。江戸時代には、薩摩藩による琉球への侵攻、松前藩のアイヌ支配の確立により、北海道・南西諸島を含む日本列島の全域が和人の勢力圏に置かれた。

「蝦夷地」と総称された現在の北海道・千島列島・樺太南部に居住したアイヌや、琉球王国を樹立した南西諸島の人々は、弥生時代以降、本土と交流を持ち続けつつも、江戸時代まで政治的には本土の政権の支配下には入らず異なる歴史を歩んだ経緯がある。現在、アイヌ語を第一母語とする人々はすでに絶えているが、アイヌ文化振興法が制定されて郷土文化の保存・再興が図られている。なお、アイヌと共に南樺太にいたウィルタやニヴフの多くは、ソビエトの侵攻・占領の後、北海道や本州へ移住した。また、小笠原諸島には、19世紀初頭にハワイから植民団が入植してヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人による小規模なコロニーが形成されたが、明治維新の後に日本による領有が確定すると順次、彼らも日本国籍を取得して日本人の社会に溶け込んだ。

日本には公用語を明示する法令が存在しない[42]が、日本語がほぼ全ての国民の母語であり、慣習に基づく事実上の公用語である。全土で均質化された日本語による義務教育が行われ、識字率は極めて高い。日本に定住する外国人も多くは日本語を理解する。国会では、アイヌ語などの使用も認められているが、憲法や法律は、日本語で記したものが正文である[43]

近代以前の日本語は、中古日本語に基づく文語を使用していたが、口語との乖離が大きかった。また口語は京都方言が中央語と意識されていたが、地域や階層による方言差が大きかった。明治維新による近代的な国民国家の創設に伴って言文一致運動が起こり、口語に近い文語と国民的な共通の口語の形成が朝野の双方から推し進められた。東京方言を基盤に整えられた新しい文語や口語(標準語・共通語)は、教育・報道・行政・軍隊などを通じて国民に広く浸透し、国民的一体感の形成に寄与した。共通語の浸透に伴い各地の方言は衰退・変容を余儀なくされたが、近年、地域文化・アイデンティティーとして見直す機運が高まり、教育現場においても共存が図られるようになった[44]

日本は漢字文化圏に属し、日本語の表記には漢字とそれから派生した仮名を主に使用する。第二次世界大戦後、GHQの指導などもあって、政府は漢字の全廃を決定し、全廃まで当面使用できる漢字をまとめた「当用漢字表」を告示して漢字の使用を制限した。しかしその後、当用漢字よりも緩やかな「目安」として「常用漢字表」が制定され、漢字全廃の方針は撤回された。そうしたなかで、一部の漢字は正字体(旧字体)から新字体に簡略化された。固有名詞は別扱いであることから、人名・地名などでは旧字体や異体字の使用が続いており、異体字の扱いは現在もしばしば問題となる。仮名の正書法に関しても、終戦後、従来の歴史的仮名遣から現代仮名遣いに変更された。

日本語以外には、アイヌが用いるアイヌ語や、樺太から移住した少数住民が用いたニヴフ語・ウィルタ語、小笠原諸島の欧米系島民と日本人島民のピジン言語である小笠原語がある。現在ではニヴフ語・ウィルタ語の母語話者によるコミュニティは消滅し、アイヌ語も母語話者が10人以下に限られる危機に瀕する言語であるが、アイヌ語再興の取り組みも活発である。琉球諸島の伝統的な言語は本土方言と違いが大きく、日本語内部の一方言(琉球方言)か、日本語とは系統の同じ別言語(琉球語)か、その位置づけには議論がある。琉球語内部でも地域差が大きく、複数の言語の集合として「琉球語派」や「琉球諸語」と位置づける場合がある。

その他の言語は、日本語に単語として取り入れられた外来語を除き、日本人同士の意思疎通にはほとんど用いられず、高等教育の教授言語としても常用されない。日本人にとって最も身近な外国語は国際語である英語であり、実務上での便益や諸外国人への配慮から、国際取引や学術研究の場で使用が奨励されることがある。義務教育の中学校の必修科目である外国語科では英語を扱うことが圧倒的に多く、それ以降の高等教育機関でも多くの日本人が英語を学ぶ。しかし日本語から遠い系統の言語であるため習得が難しく、また多くの日本人にとって日常生活での必要性が低いことなどから、堪能な者は少ない。一般の人間が大学で学ぶ第二外国語としては、フランス語やドイツ語がよく選択され、中国の経済発展に伴って中国語を学ぶ日本人も増えている。ロシア語の学習者は多くないが、冷戦崩壊後の現在、極東ロシアとの貿易が活発化しているため、北海道や日本海側の都市で外国語表記に取り入れられるなどしている。朝鮮語(韓国語)は日本人にとって比較的習得が容易な言語であり、国家間関係も密接であるが、日本人の学習率は高くない。安全保障上の理由から学ばれている言語は、同盟軍との意思疎通を図るための英語と、仮想敵のロシア語・中国語・朝鮮語が主である(予備自衛官補の語学技能枠で一般公募もされている)。

外国籍の住民および帰化外国人、日本に定住する外国人が用いる主な言語には、在日韓国・朝鮮人を中心に約100万人が用いる朝鮮語(在日朝鮮語)、在日中国人・在日台湾人を中心に約60万人が用いる中国語・台湾語、日系ブラジル人を中心に約30万人が用いるポルトガル語、フィリピン人・欧米人を中心に約25万人が用いる英語などがある。

日本国憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令や各省庁が制定する省令などの命令、地方公共団体が制定する条例など、各種の法令が定められる。裁判所は、全ての法令や行政行為などが憲法に適合するか否かを最終的に判断する違憲立法審査権を有し、最高裁判所を終審裁判所とする。もっとも、いわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、控えられることが多い。

第二次世界大戦の後、1946年(昭和21年)11月3日公布、1947年(昭和22年)5月3日施行。以来、一度も改正されていない。硬性憲法に分類される。

日本国憲法は、憲法第13条・個人の尊厳(個人の尊重)をその根本に置き、次の三つを三大原理とする。

統治機構は、立法権を国会に、司法権を裁判所に、行政権を内閣に、それぞれ分配する三権分立を採る。また、内閣が国会の信任に拠って存在する議院内閣制を採用する。

長らく、戦争の放棄、戦力の不保持を定めた9条を巡って憲法改正論議が行われている。なお、一部には、現行憲法の制定に法的瑕疵があったとして無効を主張し、今も大日本帝国憲法が有効であるとする者もいる。

天皇は、第二次世界大戦の後から現在まで、日本国憲法に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(憲法1条)と位置づけられ、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされる(同条)。その地位(皇位)は、世襲によって受け継がれ、国会の議決する皇室典範の定めるところによって継承される(憲法第2条)。憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない(憲法4条1項)。但し、国事行為の他、象徴たる地位に基づく公的行為を行う。

英語での呼称は、Emperor。政府の公式見解としては、事実上の元首であるが、さまざまな解釈がある。例えば、開催国の元首が行う慣例になっているオリンピックの開会宣言を、日本で開催されたオリンピックでは、天皇が行っている。また、CIA各国要覧の日本の項では、「chief of state: Emperor AKIHITO (since 7 January 1989)」と明記されている。更に、「立憲君主制と言っても差し支えないであろう」というのが、日本国政府の公式見解である[45]。明治期に制定された大日本帝国憲法には、立憲君主制であることが明記されていた。

初代の神武天皇から第125代の今上天皇(明仁)に至るまで、全て神武天皇の男系子孫により世襲されてきたとされる(万世一系)。また、歴史的に直接統治(親政)を行った時期が少なく、幕府などの機構に統治を委任することが多かった。天皇は、主として政治権力の担い手の正当性を根拠づけ、権威を表象する役割を果たした。

国会は、衆議院と参議院との二院からなる二院制(両院制)の議会である。「国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙された国会議員によって組織される。ただし、法律や予算、条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院に参議院よりも強い権限が与えられている(衆議院の優越)。これは、衆議院解散があり、任期も短いため、より民意を反映しているため、と説明される。

内閣は、首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣からなる合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員でなければならない。国会が指名した人物は、天皇により儀礼的・形式的に任命され、内閣総理大臣に就任する。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。内閣総理大臣、その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う一方、内閣総理大臣は衆議院の解散権を持つ。

国会では、国会議員のみが法案提出権を持つ。国会で審議される法案の大多数は、内閣が提出する政府提出法案(閣法)であり、国会議員が発議する法案(議員立法)が少ない。政府提出法案は、内閣の下に置かれる省庁が国会の多数を占める与党との調整を経て作成するため、省庁の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力は、とても強い。なお、政治家になる家系が代々しっかりとした地盤を持って選挙活動を行うため、いわゆる世襲政治家が多い。

地方自治は、基礎的な団体である市町村、広域的な団体である都道府県の二段階から成る、地方公共団体が担う。

現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消して更に広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。

戦後、憲法によって表現の自由・報道の自由が保障され、建前上、報道に関する政府からの介入は存在しないことになっている。

しかし、実際は、テレビ放送について政府が発行する免許が必要であり、かつ、NHKの予算は、国会の承認が必要である。また、新聞については、再販制度の存廃など、様々な形で事実上の介入が行われている。一方、テレビ・新聞の側においても、記者クラブ制度によって一部の大手マスメディアのみが政府からの情報を受けるメリットを享受している。また、収入源の広告料収入を大企業に頼る大手マスメディアは、かような大企業を批判することに慎重であり、また中国をはじめ大企業が依存する国家に対しても慎重な態度を取る。一方、無用な反発や軋轢を避けるため、「放送禁止用語」や「出版禁止用語」を定めて差別的な表現や下品な表現を「自粛」・「自主規制」することが行われている。また、現在進行中の誘拐事件など人命に関わる場合などにも「自主規制」の対象になる。

なお、近年に発生した報道機関を狙ったテロとしては、未だ解決に至っていない赤報隊事件がある。国境なき記者団が作成する報道の自由度を示すランキングでは、17位(2009年〔平成21年〕)であり、先進国として高い順位であると言える。下位には僅差でドイツ、カナダ、イギリス、アメリカ合衆国などがいる。国境なき記者団は日本における課題として、記者クラブ制度により外国人ジャーナリストやフリージャーナリストによる情報のアクセスが妨げられていることを挙げている。また2007年度の調査では「過激なナショナリストによる報道機関への襲撃の減少が見られる」と述べていた[47][48]

憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法を総称して六法と称する。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。商法の内、企業に関する定めの多くは、会社法に分けられた。刑法には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料、没収が刑罰として定められている。死刑制度のあり方を巡っては、憲法の制定の当時から議論がある[49][50][51][52][53][54][55][53]

同盟国との関係を重視しつつ、世界中の国と友好関係を築いている。外交の基軸として国際連合を中心に各国と幅広い外交を行い、援助や貿易を行っている。伝統的に地理的に近い東アジア各国と強い関係を保ってきた。更に、同盟国であるアメリカ合衆国(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)を最重視している。東南アジアやオーストラリア、西ヨーロッパ各国との関係も深い。

国際連合の旗 国際連合 : 日本はかつて国際連盟を脱退し、連合国(国際連合)(United Nations)を相手に第二次世界大戦を戦い敗れたという経緯がある。国際連合は戦後も継続し、日本は旧敵国の位置づけである。1956年(昭和31年)にソ連との国交を回復し、加盟を果たした。これまでに非常任理事国として最多選出されている。また、世界第2位の国連分担金を担っている。国連改革の一環としてドイツ、インド、ブラジルなどと常任理事国の拡大を訴えている。日本人職員の数は、少ない。日本の知識層の多くは、多大な貢献に比べ、恩恵や評価を受け切れていないと指摘している。長く、国連の武力行使を支持しても、経済援助のみに関与する、という慎重姿勢を取り、湾岸戦争でも巨額の戦費負担をしたが、戦力を出さなかった。が、近年、PKO協力法などの成立に始まり、課題を残しつつも法的根拠が整った。イラク戦争終結後、自衛隊を派遣して復興支援活動に携わるなどの機会も増えている。

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 : 軍事・経済・政治すべてにおいて緊密かつ重要な関係を築いている。黒船来航から始まる経済協力は、アメリカ合衆国の経済力を背景に大きなものであり続け、2006年(平成18年)まで最大の貿易相手国だった。太平洋戦争(第二次世界大戦)では、東アジア・西太平洋地域で4年間戦った末に降伏し、米を中心とする連合国軍に占領された。7年の占領時代を経て主権を回復したあとも、日米安保条約に基づき基地用地および予算を提供している。これについては沖縄などで縮小運動が起きることがある。加えて、両国の経済的な結びつきの大きさ故に貿易競争や市場参入障壁など慣習面での差異が感情的な摩擦を招くこともある。また、犯罪人引渡し条約を結ぶ数少ない国の一つである。

東アジアでは、古来、地理的に近い中国や朝鮮などを中心に外交が行われていた。儒教・漢字文化圏の一角であり、伝統的な文化の中には、雅楽、水墨画、陶磁器、禅宗、書道など、東アジアをルーツに持つ物が多い。明治以降、逆に西洋文化を取り入れて発展した日本の文化が東アジアに伝播することも増えた。欧米を始めとする世界中との外交が盛んになるのも、明治維新以降である。かつて日本領であった台湾や韓国は、現在でも重要な貿易相手である。一方、北朝鮮に対しては、北朝鮮による日本人拉致問題への反発が1990年代後半から高まり、経済制裁の最中である。近隣であるが故に地政学上の対立が常に存在する。日本、韓国、台湾は、それぞれアメリカ軍と同盟・協力関係にあり、一方、北朝鮮と中国とは、同盟関係にある。また、韓国との間に竹島の、中国および台湾との間に尖閣諸島の、それぞれ帰属を巡る領土紛争を抱える。

東南アジア諸国とは、基本的に友好関係を構築しており、タイ、フィリピン、マレーシアなど経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる。また、日本は、これら各国との自由貿易協定(FTA)の締結を模索している。自衛隊のPKOとしての派遣も、初の派遣がカンボジアへ、また東ティモールへも派遣された。東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国との間で定期的に首脳会談を行い、関係を重視している。また、この海域(特にマラッカ海峡)は、中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど非常に重要なルートであるが、海賊が頻繁に出没する。その対策として、海上保安庁が各国の沿岸警備隊に対して指導・共同訓練を行っている。以下のように、各国との関係は基本的に良好な状態にある。

オセアニアの中でも南洋諸島の各国は、かつて日本が委任統治領ないし占領地として統治下に置いていたこともあり、関係が比較的深い。ミクロネシア連邦では、日系人のトシオ・ナカヤマやマニー・モリが大統領に選ばれている。パラオは、かつて日系のクニオ・ナカムラが大統領に就任し、一部の自治体で日本語が公用語として採用されている(実際に日本語を日常的に使用している訳でなく、象徴的な意味合いが強い)などの経緯もあり、官民とも非常に親日的である。

中華人民共和国の旗 中華人民共和国 : 改革開放政策の後、経済的な成長を遂げて多くの日系企業が生産拠点を持ち、また、2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカを上回って最大の貿易相手国となった[56]。靖国神社問題に関連して関係が悪化した。日本では、2005年の中国における反日活動なども盛んに報道され、また、2008年(平成20年)6月、アメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査では、中国を好ましくないと答えた割合が84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で最も高かった。また、日本人の中国への旅行者も減少した。一方、中国では、前年比から9%減少したが、それでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、依然として両国民が相互に反発していることが明らかとなった。報道は中国政府の統制下にあり、一般国民に日本からのODAや謝罪などが周知されているとは言いがたいが、四川大地震に際しての自衛隊の救援活動など、中国人からの感謝の意が表れる出来事もある。2010年(平成22年)以降、経済規模で日本を抜いて成長し、無視できない存在となっている。

朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮 : 現在、国交が無い。北朝鮮は、韓国併合に対する評価や賠償問題・請求権問題、いずれについても決着していないとする立場である。日本政府は、日韓基本条約に基づいて韓国政府のみが朝鮮半島の正統な政府であるとの立場である。また、賠償問題も韓国との条約によって解決済みとの立場である。2002年(平成14年)の日朝首脳会談では、賠償権を相互に放棄し、日本が北朝鮮へ経済協力を行う方法で合意したと発表されたが、その後、国交正常化交渉の停滞を招いている。背景には、北朝鮮による日本人拉致問題や不審船事件などに対する日本の世論の反発や北朝鮮核問題などで孤立を深める北朝鮮の現状がある。日本は、現在これらを受けて経済制裁を北朝鮮に行っている。北朝鮮は、核カードを使ってアメリカからテロ支援国家指定の解除を引き出した。

韓国の旗 韓国 : 韓国併合の影響で反日感情が強いが、アメリカとの同盟の下、親米軍事政権が独裁を敷き、(反共・反日教育を行うと共に)上から反日感情を抑えてきた。金大中政権で日本の大衆文化が自由化されて親近感を持つ人々が増加すると共に、民主化の進行と共に反日感情も浮上してきた。盧武鉉政権で近隣諸国に強硬な外交を行い、日本との領土問題や歴史問題にも強い姿勢で臨み、反日運動が活発化した。李明博政権では、前政権で悪化した近隣諸国との関係を修復し、日本にも比較的穏健な姿勢で臨む方針を見せている。

中華民国の旗 中華民国 : 日本政府は、2010年現在、中国に配慮して台湾を独立国家として承認せず、双方ともに大使館を配置しない代わりに民間の利益代表部を置く。台湾は、日清戦争で日本に割譲されて以来50年間の日本統治時代を経験して近代国家の礎を築いた。その後、連合国の一員として日本に戦勝しながらも共産党に大陸を追われた中国国民党が台湾を支配することになる。日本と中華民国とは、旧敵国であったが、共に反共の立場をとる西側陣営に所属する。その後、国民党は、本省人である李登輝総統を輩出するなどし、反日姿勢も弱まった。安全保障において台湾は、台湾関係法などを背景にアメリカ軍と密接な関係にあり、日米同盟を持つ日本とも間接的な協力関係にある。日本と台湾とは、互いに尖閣諸島の領有を主張し、たびたび係争も起きたが、深刻な対立に至っていない。人的・経済的な交流は、一貫して盛んで、日本の他で初めて新幹線システムの一部を採用した。国民党と民主進歩党との二大政党である。

タイの旗 タイ : タイ王室と皇室との関係が良好である。

フィリピンの旗 フィリピン : フィリピン人は、在日外国人として国籍別で第4位の人口を有する。

シンガポールの旗 シンガポール : 日本・シンガポール新時代経済連携協定を結び、日本にとって初の自由貿易協定締結国である。

カンボジアの旗 カンボジア : 経済面での支援を行い、また、文化面でもクメール・ルージュによって破壊・弾圧された仏教の施設や信仰の復興に、日本の仏教界が大きく貢献している。地雷撤去の活動なども精力的に行われている。

インドネシアの旗 インドネシア : スマトラ島沖地震では、金額で国別3位の支援を早急に決めて拠出し、更にアチェ州へ海上自衛隊の艦艇を派遣した。防災システムの構築にも支援を行っている。

オーストラリアの旗 オーストラリア : オセアニアで最大の影響力を持つオーストラリアと非常に緊密な関係を築いている。日米豪の防衛首脳会談が行われたこともあり、経済、軍事、外交などで共同歩調を取る。2007年(平成19年)3月には、自衛隊とオーストラリア軍とが国際連合平和維持活動(PKO活動)の共同訓練、反テロ活動、津波など地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれた安全保障協力に関する日豪共同宣言に調印した。これにより、日本にとって安保分野で正式な協力関係を結ぶ(アメリカに続く)2番目の国となる。

ロシアの旗 ロシア : 日露関係は対立とともに語られる事が多い。これはロシアが伝統的に南下政策を取り、太平洋への出口を求めたため、通り道の日本との間に地政学的な対立構造があったからである。その表れとして1904年(明治37年)に始まった日露戦争や、太平洋戦争終了直前のソ連対日参戦、そして北方領土の占拠などが起こってきた。1986年(昭和61年)以降に関係の改善が進み、現在の両国の間では、経済的な交流も盛んだが、北方領土問題やそれに起因する漁民銃撃・拿捕事件、資源問題(サハリン2を参照)なども生じている。歴史的には、ゾルゲ事件や対日参戦、日本人捕虜のシベリア抑留などがあった。

以下の領有を巡る領土問題を抱える。

南アジア各国とも友好関係を保っている。しかし、被爆国であるため、核実験を行ったインドやパキスタンと距離を置いていた時期もある。が、近年、以下のように両国との関係が強化されたことから、2006年(平成18年)に外務省アジア大洋州局に南部アジア部を新設した。

中央アジア諸国は、かつてシルクロード経由で日本へも文化的な影響を及ぼしていたが、現在の人的な関係は、乏しい。また、経済基盤の貧弱な国が多く、更に海に面していないために輸送コストなども掛かるなどの理由から、一部の希少な地下資源を除き、貿易などの経済的な関係も他地域と比べて活発と言えない状況にある。ただ、この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究などの学術関係での交流は、活発である。

西アジアは、主要な原油供給元であり、経済的に密接な関係を保っている。が、文化的交流は、比較的乏しい。但し、宗教的な対立要因が無いため、住民の対日感情は、比較的良好とされる。

第二次世界大戦以降、西ヨーロッパを中心とする北大西洋条約機構諸国と間接的な同盟関係にあった。また、皇室は、イギリスやオランダ、スウェーデン、ベルギーなどのヨーロッパ各国の王室と深い友好関係を築いている。一方、特にオランダなどには、第二次大戦で交戦したことによる悪感情が一部に残っているとも言われる。

インドの旗 インド : 近年の著しい経済発展や、情報技術での実績が注目されている。また、G4として共に行動するなど、或いは、対中国の立場からも、関係強化を目指している。更に、2008年(平成20年)10月には、両国首脳が日印安全保障協力共同宣言(日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言)に署名し、日本にとって、アメリカ、オーストラリアに次いで、安全保障分野で正式な協力関係を結んだ3番目の国となった[58]

パキスタンの旗 パキスタン : 1998年(平成10年)の地下核実験から2005年(平成17年)4月まで援助を停止していた。しかし、自衛隊イラク派遣などで、安全保障の観点から中東への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は、当時の小泉純一郎首相が訪問したのを機に有償資金援助を再開した。

日本の旗 バングラデシュ : 世界最貧国の一つとも言われ、日本は、経済、保健、自然災害対策など多くの面で援助を行っている。

アフガニスタンの旗 アフガニスタン : 日本は、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群の修復などに多額の援助を行っている。アメリカ合衆国が行った武力攻撃を支持したが、部隊の派遣は、自衛隊インド洋派遣に留めている。

イラクの旗 イラク : イラク戦争の後、自衛隊イラク派遣を行った。

イスラエルの旗 イスラエル : これまでのところ、経済・文化ともに交流が薄い。また、日本は、中東和平やパレスチナ問題に関して中立の立場であり、政府高官が訪問する際には、イスラエル・パレスチナ自治政府の双方と会談が設定される等、バランスが図られている。

ドイツの旗 ドイツ : 第一次世界大戦で敵対、第二次世界大戦で共に枢軸国として日独伊三国軍事同盟。戦後も、共に焼け野原から奇跡の復興を果たした経済大国であり、重要なパートナーとしてイギリスやフランスを凌ぐヨーロッパ最大の貿易相手国である。更に、政治の面でも共に常任理事国を目指すG4のパートナーとして行動する。

中央アメリカ(中米)諸国とは、人的・文化的な交流に乏しいものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を保つ。また、キューバなどの社会主義国とも経済・文化の両面で友好的な関係が築かれ、ペルー日本大使公邸占拠事件でも日本の要請を受けたキューバがゲリラの亡命受け入れを受諾するなど協力した。

南アメリカ(南米)は、地理的に地球の真裏に位置するが、下記のように19世紀の後半からペルーやアルゼンチンと深い友好関係を有する。また、かつて日本からの移民を大量に受け入れた経緯もある。貿易関係では、チリとの関係が特に大きく、戦前からの友好関係が続くアルゼンチンやパラグアイといった親日的な国も多い。

メキシコの旗 メキシコ : 中米諸国の中で最も関係が深い。明治の開国以降に結ばれた日墨修好通商条約は、それまで列強各国の不平等条約に苦しめられてきた日本にとって、初めての平等条約である。その関係で、数ある諸外国の大使館の中でも国政の中枢地区ともいえる永田町に在るのは、メキシコ大使館のみである。多数の日本企業が進出するなど経済的な関係も深い。

ペルーの旗 ペルー : 1872年(明治5年)にマリア・ルス号事件をキッカケに修交が始まった。多くの移民が渡り、ラテンアメリカで二番目に日系人口が多く、1990年代に日系人であるアルベルト・フジモリ(スペイン語で「フヒモリ」)が大統領に就任して急速に関係が緊密化したが、失脚の後、日本に亡命した。

アルゼンチンの旗 アルゼンチン : 1898年(明治31年)、ロシアとの戦争に備えて軍艦リバダビア、モレノをそれぞれ春日、日進として購入し、それらが日露戦争で活躍したことなどから本格的な関係が始まった。また、マルビーナス戦争(フォークランド紛争)の最中、アメリカやイギリスなどからの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置を行わないなどの日本の独自外交は、アルゼンチンの知日家から高く評価される。

ブラジルの旗 ブラジル : 約180万人という海外で最大規模の日系人社会が築かれていることもあり、政治・経済のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を保つ。特に、Jリーグが始まって以降、ブラジル人選手が最多数の外国人選手であり続けている。また、G4として共に常任理事国を目指していることもあり、国際政治上で連携することも多い。

アフリカ諸国は、地理的にも遠く、歴史的にも殆ど関わりが無かったこともあり、現在も人的な交流などが多くなく、観光地としてもエジプトなどの一部を除いて大きな人気がある訳でもない。主に地下資源の輸入と工業製品の輸出という貿易のみの関係に終始していた。

1993年(平成5年)から、ODAなどの経済支援を含む経済的・人的な交流を深める目的で、日本、国際連合、アフリカのためのグローバル連合、世界銀行が共催し、アフリカ開発会議(TICAD:Tokyo International Conference on African Development)を開始した。

近年、アフリカ諸国に大使館を増やすなど関係強化に乗り出している。その背景として、中国がアフリカ諸国との関係強化を行っている情況がある。これは、資源確保や国連での票固めなどが目的であると指摘され、現地に在住の華僑などを活用して攻勢を進めている。

なお、サッカーなどスポーツの分野においては、アフリカ諸国を日本に招いた試合が行われており、良好な関係を築いている。

南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国 : アパルトヘイトで世界から孤立していた時代にも多くの日本企業が進出し、比較的密接な関係を築いていた。

警察の機構は、内閣府の一機関たる国家公安委員会・警察庁、そして各都道府県の公安委員会・警察本部による二層構造であり、後者の下部組織たる警察署、更に日本から発祥の交番の存在が地域の安全を担う。SAT等をも擁する文民警察である。

他に、沿岸警備隊たる海上保安庁が国土交通省の外局として、また、国境警備隊たる機能の一部を担う法務省入国管理局(入国警備官)や財務省の税関(税関職員)、或いは、特に薬物犯罪を専門に管轄する厚生労働省の各地方厚生局麻薬取締部(麻薬取締官)などが、それぞれ設置されている。

銃砲刀剣類所持等取締法により、銃・刀剣などの武器の所持を厳しく規制している。国際連合薬物犯罪事務所の統計によれば、国連加盟192国の内、犯罪・刑事司法の統計を報告している国の中で、殺人、誘拐、強姦、強盗などの暴力犯罪の発生率が著しく低い[60][61][62][63][64]。その理由については、制度的な要素、社会的な要素、日本人の遵法意識の高さなど諸説あるが、その一つとして厳しい銃規制も挙げられる。但し、イギリスの銃規制に見られるように日本と同等ないし罰則だけなら日本よりも厳しいのにもかかわらず、殺人事件に占める銃の使用される比率が日本の倍を超える国すら存在するので、注意が必要である。

戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を規定する憲法第9条の存在により、安全保障の分野におけるデ・ジュリとデ・ファクトとの乖離が特に目立つ。事実上の軍事同盟たる日米同盟(日米安全保障条約)に基づき、在日米軍が駐留する。また、事実上の軍隊たる自衛隊は、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊から構成され、内閣総理大臣及び防衛大臣による文民統制の下、防衛省によって管理される。また、事実上の準軍事組織として沿岸警備隊たる海上保安庁が存在するが、海上保安庁に対処が困難な事態が発生した場合、主に海上自衛隊が担当する。

大日本帝国憲法の統帥権を根拠に日本軍が政治に深く関与したことへの反省から、自衛隊法第7条により、内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮監督権を持つと規定され、文民統制に注意が払われている。また、同じく戦前への反省から自衛隊海外派遣は長らく行われてこなかったが、自衛隊ペルシャ湾派遣や自衛隊カンボジア派遣を契機に開始された。第二次世界大戦後、日本の部隊は、その所属にかかわらず、一切の直接の戦闘を経験していない。連合国軍の占領下にあった1950年(昭和25年)、朝鮮戦争で海上保安庁の機雷掃海部隊(特別掃海隊)が派遣されたことがあり、死傷者も出している。が、それでも軍隊や民兵を相手に直接、交戦した経験はなく、実際の戦闘においての能力は、未知数である。

(イギリスの経済紙・エコノミストの調査部門であるエコノミスト・インテリジェンス・ユニットが平和の指標として24項目を数値化する)「世界平和度指数」の2009年(平成21年)度版によると、戦争・内戦・テロ、それによる死傷者が無く、軍事費のGDP比が低く、犯罪率が低いことなどから、ニュージーランド、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、オーストリア、スウェーデンに次いで7位に評価され、2010年には3位とされている。[65][66]。 ただ、この指標には海外(アメリカなど)から軍事的庇護の下にある日本などに対して、有利すぎるとの批判が出ており、エコノミストも自ら認めている。

以下のような政策・傾向を継続している。

ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の統計によると、以下の通りである。

このように GDP に対する割合の順位(世界の150位前後)に比べてドル換算した絶対額の順位(世界7位)の方が格段に高い理由として、以下が挙げられる。

冷戦の時代、ソビエト連邦が最大の仮想敵国であり、各部隊の配置も北海道など北方に重点が置かれる。しかし、ソ連が崩壊して冷戦が終結して以降は、軍拡を続ける中国や水際外交や国家犯罪を繰り返す北朝鮮が最大の脅威となり、これらへの対抗から部隊の西方への移転が進められている。しかし、広大な敷地や大規模な工事が必要なこともあり、あまり進んでいない。

近隣の文化を取り入れつつ独自に発展した。文化とは、人間の集団あるところに常に存在する以上、縄文時代から何らかの文化が存在したのであろうが、文字を持たなかった故、現在に知る術が無い。南方からの伝搬も想定されるが、少なくとも表面的には、大きな影響を残さない。

4世紀頃から9世紀頃まで、渡来人により、大陸の文化が伝わった。日本も遣隋使・遣唐使や留学生を派遣し、積極的に中国の文化を取り入れた。

大陸との往来が減った10世紀頃から、これらの輸入された東アジア文化が日本に特有の文化へと発展する。12世紀頃、北宋との貿易によって紹介された禅宗が禅に発展し、喫茶の習慣も禅宗の寺院に定着する。14世紀から16世紀の間、特に東山文化で、猿楽(現在の能楽)や茶の湯(現在の茶道)、枯山水などの庭園や書院造などの建築といった、現在に伝わる「侘び・寂び」(わび・さび)の概念が生まれた。

16世紀の半ばからヨーロッパの文化がもたらされ、刺激を与えた。しかし、後のキリスト教禁教や鎖国により、後世への影響は、喫煙の習慣などを除き、地域的に止まった。17世紀以降の江戸時代には、国内の安定や鎖国による閉鎖された環境の中で再び独自の文化が発展し、歌舞伎、浮世絵などが大衆に広がった。

この間、アイヌの文化は日本の周縁文化圏として独自の様相を見せる。また、琉球は本土との交流を持ち続けつつも、日本の他の地域とは異なった独自の道を歩む。この状況は、明治維新によって一応の区切りが付く。

明治維新の後、西洋式の独立国家としての体裁を整えた。廃仏毀釈や文明開化に見るように国策として伝統文化が抑圧され、欧米の文化が急速に取り入れられた。特に都市部で様々な物の欧米化が進み、庶民の生活に大きな影響を与えた。一方、日常生活では、伝統的な生活習慣が根強く残り、特に地方では依然として伝統的な文化が維持されていた。それが解体されるのは、第二次世界大戦後の高度経済成長以降である。

大正期には、経済の好景気などを受け、アメリカ合衆国の文化を取り入れた映画やスポーツなどの享楽的な文化が流行した。しかし、昭和に入ると、第二次世界大戦の戦時下で欧米風の文化が厳しく制限された。

1945年(昭和20年)に政府がポツダム宣言を受諾すると、アメリカ軍を中心とした連合国軍最高司令官総司令部が日本の政治改革を進め、それと共にアメリカ文化も日本人に受け入れられた。冷戦下の独立とともに西側諸国に組み入れられた日本は、アメリカ流の生活・文化を目標とするようになる。

高度経済成長期に至ると、従来の生活習慣も大幅に変わり、伝統的な文化の多くが忘れられる様相を呈するが、一方、自信をつけた日本人は、自らの文化を再評価するようになる。例えば、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会(大阪万博)の太陽の塔は、縄文の芸術をモチーフにしたものとされる。

また、大衆文化(サブカルチャー)における漫画やアニメ、テレビゲームといった新しく生まれた独自の表現も世界に発信され、様々な摩擦を乗り越えながら、若い世代を中心に広がっている。

現在、日本人の大半は、特定の宗教を信仰しているという自覚が弱い。公立学校では、憲法の政教分離規定に基づき、宗教教育が実施されない。宗教学部や学科を置く大学も多くない。そのため、日本人の多くは、自らの宗教心や身についた宗教的な伝統について自覚的でないことが多い。神道は、正月の初詣に限れば他の宗教に比肩しえない動員数を有する(2006年(平成18年)の正月三が日の神社の参拝者数:のべ9000万人)が、これも現在では、クリスマス等と同じくイベント的な側面が強く、これを厳密な意味での宗教行為と考える学者も少ない。また、神道の重要な神事である祭は、その土地ごとの特色で様々な時期に開催されるが、祭の主催者や参加者は、共に概ね特定の氏子やボランティアで完結する例が多く、多くの一般住民にとって外から観覧して楽しむものであり、儀式としての当事者的な参加意識は、希薄である場合が殆どである。

日本の宗教の信者数は文部科学省の宗教統計調査では、神道系が約1億700万人、仏教系が約8,900万人、キリスト教系が約300万人、その他約1,000万人とされている。

日本では、日本固有の信仰である神道と外来の思想である仏教とが広く信仰され、半ば融合した神仏習合として分業的に共存した。神道と仏教は明治維新後の神仏分離を経て、明確に区別されたが、神仏習合は各地に残る山岳信仰などにその名残をとどめている。カトリックやプロテスタントなどのキリスト教徒も存在するが、洗礼を受けた正式な信者は、総人口の1%を超えず、教会も社会に強い影響力を有さない。いっぽう、キリスト教徒である著名な文学者や思想家など文化人の社会的な影響は、必ずしも小さくない。しかし、クリスマスなどいくつかの儀式・祭礼は、しばしば本来の宗教と関係なく世俗的な年中行事として広く受容される。ムスリムやユダヤ教徒は、在日外国人を除けばわずかである。

現在、食料自給率が低いものの、豊かな漁場や肥沃な農地に恵まれ、良質な食材の入手が可能である。良質で豊富な飲料水にも恵まれ、伝統的な和食の他にも世界中の食文化を取り入れた。世界で最も食文化の豊かな地域の一つと言える。

現在、いわゆる少子高齢化が進む。

世界保健機関(WHO)の統計(2007年〔平成19年〕)によると、WHOに自殺統計を報告する101か国の中における自殺率の順位は、高い方から第11位であり、人口一人当たりのGDPが20,000ドル以上の国々の中では、第1位である[85]

政府は、この先進国でも極めて高い自殺率を重要な問題と認識し、その原因については、宗教・死生観など日本人の様々な精神性が仮説として提示されるが、依然として解明されていない。但し、諸国と比較し、社会全体で自殺を包括的に予防する対策の不備が指摘される。2006年(平成18年)に自殺対策基本法が制定されたが、基本的な枠組みを規定するに止まり、具体的な制度や政策の規定に乏しい[86]

1990年(平成2年)時点の識字率は、99.8%(男99.9%、女99.7%)。日本国籍を有する6歳から15歳までの9年間(学齢)を対象とする義務教育が実施される。一般には、小学校6年間、中学校3年間。特別支援学校については、小学部6年間、中学部3年間。中等教育学校については、前期課程3年間。なお、中学校を卒業した内の約96%が高等学校に進学する。

世界的にも多くの分野で高水準のテクノロジーを有する。国際特許の出願数は、アメリカ合衆国に次ぐ世界第2位、特許収入もアメリカに次ぐ世界第2位の黒字国である。

資本主義・市場経済を採用する工業国であり、2009年時点で、国内総生産(GDP)がUSドル時価換算の為替レートで世界第2位(購買力平価(PPP)で世界第3位)に位置する経済大国である。一人当たり GDP は2009年時点で、USドル時価換算で世界第17位、購買力平価(PPP)で世界第23位である。

通貨である円(¥, yen, JPY)は、高い信認を有する国際通貨の一つである。日本人は、その信認の高さから現金決済や貯蓄を好む傾向がある。1964年(昭和39年)に経済協力開発機構(OECD)に加盟し、サミット(主要国首脳会議・当時のG5・後にG7・現在のG8)にも1975年(昭和50年)の第1回から参加するなど、その動向も世界経済に強く大きな影響を与える。

明治以来、西欧型の民法典を導入し、財産権を基礎とした資本主義を経済の基本とする。第二次世界大戦時の戦時体制を経験した後、物価統制令や傾斜生産方式、外貨準備に伴う割当制など、通産省や大蔵省が主導する護送船団方式により、製造業を軸に高度経済成長を果たした。1968年(昭和43年)、国民総生産(GNP)ベースでアメリカ合衆国に次いで第2位の規模の資本主義国となった。他の資本主義諸国と比較して失業率も低く、「最も成功した社会主義国家」と言われた時代もあった。1974年(昭和49年)のオイルショックを機に安定成長期に入り、自動車、電化製品、コンピュータなどの軽薄短小産業が急成長する産業構造の転換が進んだ。円高が進む中、比較劣位の産業のいくつかは、競争力を喪失して衰退し、自動車産業など、比較優位で競争力の高い輸出産業は、円高の波を乗り切り、基幹産業として世界でも最高水準の競争力を持つに至った。しかし、製造業では生産拠点が海外に流出する空洞化が進行している。 1990年代前半にバブル景気が崩壊したことによる不況で、「失われた10年」と呼ばれる長期不況に苦しんだ。日本の経済成長率は、高度成長期はもちろんのこと、安定成長期にも欧米を上回っていたが、1990年代以降は欧米や東アジア諸国を大幅に下回っている(1991年から2009年までの日本の平均経済成長率は0.8%)。

小さな政府

2002年(平成14年)時点の主要な輸出の相手国は、金額ベースで28.9%を占めるアメリカ合衆国、中華人民共和国(9.6%)、大韓民国(6.9%)、香港(6.1%)、シンガポール(3.4%)である。アメリカ合衆国、東アジア、東南アジアへの輸出を合わせて55%を占める。輸入の相手国は、アメリカ合衆国(18.3%)、中国(17.4%)、韓国(4.6%)、インドネシア(4.2%)、オーストラリア(4.2%)であり、以上で48.7%を占める。貿易収支は、黒字(2004年(平成16年)に約14兆円)である。主要な輸出品は、金額ベースで自動車(22.3%)、機械類(21.6%)、電気機械(20.5%)、鉄鋼(3.7%)、化学薬品(3.1%)の順である。主な輸入品は、電気機械(12.2%)、機械類(11.2%)、原油(10.8%)、衣類(5.2%)、天然ガス(5.2%)である[92]

日本の産業は、発展の過程で間接金融による資金調達を広く用いたため、銀行が経済に与える影響が大きい。銀行は、融資で土地資産を担保に取ることが多かったため、土地が経済に与える影響も大きい。しかし、バブル景気の崩壊後は、直接金融や市場型間接金融への転換が進められている。金融機関では、バブル時期の焦げ付き、いわゆる不良債権問題が長引き、1990年代初頭に金融危機を引き起こした。しかし、政府主導で大合併が行われて公的資金を注入しての強引な解決が図られ、その後は、超低金利政策の下、高収益を上げるようになった。日本銀行は、2006年(平成18年)にゼロ金利を解除したが、未だ金利の水準が低く推移し、個人消費の伸びも見られないなど、経済回復が明確でなく、それ以上の金利引き上げに至っていない(2007年〔平成19年〕)。

また、継続的な経常黒字により、世界最大の債権国であり[93]、世界経済からの配当や利子の受け取りが次第に増大している。

古くから北太平洋及び北東アジアの交通の要所として海運や航空において重要な位置を占め、世界的に有数の規模の海運会社や航空会社が存在し、各国を結ぶ。また、アジアにおいて最も早く鉄道を導入した国の一つであり、私鉄による鉄道網が全国を網羅している。また、高度経済成長以降、モータリゼーションが進み、道路網・高速自動車専用道路網が発達している。

谷岡一郎、仁田道夫、岩井紀子『日本人の意識と行動』東京大学出版会 ISBN 978-4-13-056101-3

政府

観光